1741年11月初旬、ロシアの探検家
ビータス=ベーリングの船、セ
ント=ピーター号は太平洋の最北、ロシア極東に位置するアリューシャン列島を進んでいました。しかしながら航海の要所であったカムチャッカ半島のペトロハ
バロフスス港を目指していた一行は、カムチャッカ沖500kmのところに位置する
コマンドル諸島の無人島、現在のベーリン
グ島にたどり着いたところで座礁してしまいます。
これによりベーリング達は厳しい極東の冬を絶海の孤島で越えることになってしまったのですが、彼らの中には当時長期航海において最も死亡率の高かった
壊血病(長い航海で野菜などを
摂取しにくいことから起こる、ビタミンC欠乏から血管の壁が破れ出血する病気)
にかかった乗組員も多数含まれており絶
望的な状態になっていました。たどり着いた無人島で助けも期待できない中船員が次々と壊血病で死んでいき、そして追い討ちをかけるように流れ着いて約1ヶ
月がたった12月の19日、
指
揮官であったベーリングも帰らぬ人となってしまいます。このような状況にあった彼らの大きな助けとなったのが、ドイツ人医師であり、自然学
者であった
ゲオルグ=ウィルヘ
ルム=ステラーでした。
ベーリング亡き後、ステラーは乗組員への指示を行い10ヶ月におよぶ島での生活から、
尊い犠牲は出したものの最終的に多くの船
員を生還させることに成功しました。このときステラーは島で暮らしているときに、病に苦しむ船員の面倒を見る一方で島周辺の環境を詳しく調
査していました。そして彼らは島の周辺に
体長7mを超える巨大なカイギュウの群れを発見します。カ
イギュウとは
ジュゴンやマナティーのような海に棲む草食性のホ乳類で、彼らは島の近くの浅瀬で岩に
付いたコンブなどを食べて生活しており、
ステラー達がボートをすぐ横に漕ぎ入れて
もまったく意に介さず人間を恐れることは無かったといいます。食糧難に陥っていた
ステラーたちにとって彼らは重要な食料源
となりました。このカイギュウを食べた船員達は
その肉は子牛のものに似た味と食感を持っていたと表現していま
す。
自然学者でもあったステラーはこのカイギュウの生態を詳しく調べ、本国に戻るとこの動物についての報告を行いました。このカイギュウは発見者であるステ
ラーにちなみ
『ステラーカイギュ
ウ』の名づけられました。ちなみに彼は他にも数多くの生き物についての報告も行っており、ロシア極東や日本などに住む
オオワシの英名(Steller's Sea
Eagle)を初めとして
多く
の動物の名前は彼にちなんでつけられています。
発見された
ステラーカイギュ
ウはアリューシャン列島のコマンドル諸島などの限られた地域にのみ生
息していました。ジュゴンやマナティーが比較的暖かい海で生活して
いるのに対し、彼らは
非常に冷
たい海の島に近い浅瀬で生活している唯一のカイギュウ類でした。ステラーたちの報告によるとこのカイギュウの
体長は7mを軽く超え一説には最大8.5mに達し、体重は
5〜12tもあったといわれています。彼らは海底にある岩に付いている
コンブなどの藻類を主に食べていましたが、
他の海草を食べ物にすることはあまりな
く、現存のカイギュウ類が逆に藻類をめったに食べないことを考えると、
食性の点でも大きく変わっていたと
考えられます。
ステラーカイギュウの頭部は体に比べて小さく、首が短くて胴体との境界はあまりはっきりとはしていなかったと言われています。また彼らの顔は小さな目と
口の周りに生えた太い毛を持っており、大人のステラーカイギュウには歯はありませんでした。その代わりに彼らの上あごと下あごには人間の爪と同じように、
固い角質でできている細かい溝の付いたクチバシ状の器官を持っていました。彼らはよく動く唇とこのクチバシを使って岩に付いたコンブなどを
噛み千切って食
べていたと考えられています。ただ現存するカイギュウ類は食べ物をあまり噛むことはしておらず、このことを考えるとステラーカイギュウもあまりコンブを口
の中で
噛んだりすりつぶすことはしていなかったと思われます。実際それを裏付けるようにステラーが捕まえたこのカイギュウを解剖したところ
体の中には非常に大き
な腸が内蔵されており、あまり噛み砕かれていない食べ物を完全に消化するためにこのような腸が必要であったといわれています。また彼らの首
の構造は非常に柔軟で、あまり体を動かさなくても広い範囲の餌を食べることが出来たと考えられています。
彼らは大きくて平らな先がクジラのように二股に分かれたしっぽを泳ぐときに使い、その体は
数多くしわが刻まれた厚さ2.5cmもある黒い色をした、まるで木の皮のような丈夫な皮膚で覆われていました。更にその下には
10〜20cm以上もある脂肪の層があり、これによってステラーカイギュウは
寒さから身を守り、氷や岩で体に擦り傷が
付くのを防いでいたと思われれます。外から見た彼らの耳は豆粒代の大きさしかなくあまり目立っていませんでしたが、内耳の構造は発達してお
り、音はよく聞こえていたと考えられています。
ステラーカイギュウは普段
群
れで行動しており、とても社交的な動物であったことが判っています。彼らの繁殖方法についてはあまり資料が残されていません
が、一匹のオスとメスがつがいを作り交尾は春の初めに行われたといわれています。ステラーによると彼らの
妊娠期間は一年を超え、主
に秋に出産し、
一
回の出産で一匹の子供が産み落とされたそうです。生まれた子供は群れの中央で育てられました。ステラーは
このカイギュウの夫婦の絆は大変強かったと
言って
います。
彼らの生活はとてものんびりとしたもので
、一日のほとんどの時間は食事をしている
かぷかぷか浮かびながら休んでいるかのどちらかでした。ステラーカイギュウは完全に水の中に体を沈めることはまず無く、
常に大きて丸く隆起した背中の上部を水の
外にのぞかせ水
面のすぐ下を漂っていたと記されています。群れで行動する彼らは仲良く海藻を食べながらゆっくりと移動していたそうです。この外に突き出し
た背中は非常に
目立ち
、転覆したボートの船底
と間違えられることがたびたびありました。餌を食べているときは常に頭は水の中に沈んだままですが、4〜5分間隔で水の外に鼻を出し呼吸を
していたそうです。このときシューッ、ゴーッといった音を出して勢い良く空気を吸っていましたが、ステラーはその呼吸音はまるで馬のようであったと言って
います。
ジュゴンやマナティーなどの他のカイギュウ類は浮力を完全にコントロールし、水の中に潜ることが出来たのに対しステラーカイギュウが体を沈めることが出
来なかったのはその分厚い脂肪が生み出す浮力が非常に大きかったからでした。しかしながら彼らは浮かびながら生活することで、冷たい水に体をさらす部分を
減らし、
体温の低下を防いでい
ました。またこれによって
浅い海で生活することが可能になり、海に
棲む天敵から逃げることを可能にしたといわれています。時々島から流れ込む川の河口に群れが居るところが目撃されていますが、これは彼らは
海水から水分を取るが出来ず、河口へ真水を飲みに行ったからだ
と考えられています。
またこれら以外に彼らがカイギュウ類や海生ホ乳類と大きく異なっていた点は、その前足にありました。ステラーカイギュウの
ひれ状の形をした前足には指の骨が完全に
退化して無くなっていました。他のカイギュウ類やクジラなどですら、完全に指の骨が失われてはおらず、このことは
ステラーカイギュウが海中生活に非常に高
い適応をしていたことを示しています。またこの前足は体の中心に向かってかぎ型に曲がってしており、骨格の構造から
彼らはこの前足を前後に動かして岩に付い
た藻を剥ぎ取ってたり、水底を歩いていたと言われています。ステラーは多くのステラーカイギュウの水に使った部分の皮膚には数多くの小さな
甲殻類が寄生してお
り、解剖した腸の中には線虫と呼ばれる寄生虫が居たといっていますが、あまり標本は残されていないため、どのような寄生虫であったのかは判っていません。
無事本国に戻ったステラーは、
10
年後の1751年にこの航海で得たラッコやアシカなどを含む数々の発見に関する観察記を発行しました。これによって
ヨーロッパやロシアの人々は
初めて北の海にいる巨大なカイギュウの存在を知ることになります。ステラーカイギュウの肉は牛に似て大変美味であり、比較的長い時間保存することが出来た
ためステラー達が島を脱出する際には大変助けとなりました。彼らは冬が終わり春になると、座礁したセント=ピーター号の船体から新しいボートを建造し、
1742年8月に島を後にしますが、旅立ちの前6週間の間に食料を得るため初めてステラーカイギュウの狩りを行いました。肉のほかにも彼らの体は船乗り達
に大変重宝され、
分厚い皮は
靴やベルト、船体に利用され、ミルクは直接飲まれたりバターへと加工されました。更に彼らの
脂肪は甘いアーモンドオイルの
よう
な味が
し、ランプの明かりにも使われたそうです。
こうしてステラーカイギュウのおかげでステラーたちは船を建造し、本土への生還を果たしたのですが、
この
潤沢な生き物のうわさを聞きつけたハンター達がコマンドル諸島へ押し寄せました。ステラーカイギュウ達は島のすぐ近くの浅瀬に住んでいたた
め、ハンター達
はボートを使ったり水の中を歩いていくだけでカイギュウの群れのすぐそばにまで行くことが出来たと言います。更にステラーカイギュウは人間をまったく警戒
するこ
とは無かったため
簡単にハン
ターの持つモリやライフルの餌食になってしまいました。
ハンター達はカイギュウを狩るときにはその場で殺してしまうと何トンにもなる巨体を運ぶことは難しいため、モリなどで傷をつけたステラーカイギュウはそ
のまま放置しました。その後傷を負ったカイギュウは出血多量により死亡し、
ハンター達はその死体が岸に打ち上げられ
るのを待ち構えました。ステラーカイギュウたち
は仲間が傷つくと助けようとして集まり、オスのカイギュウ達はメスの体に刺さったモリや絡みついたロープを外そうとしたといいます。しかし
ながら
集まって
きたカイギュウ達も次々とハンターの餌食になってしまいました。しかしながら岸に打ち上げられる死体はそれほど多くなく、
殺されたカイギュウの正に5匹のうち4匹はそのまま海の藻屑となったといわれています。
ステラーカイギュウに対して行われた狩りは彼らの個体数を考えられずに行われ、ステラー達が発見したときにはすでに
1000〜2000頭しか残っていな
かったと思われる彼らは急激にその姿を消していきました。このことを危惧したコマンドル島の開拓本部はステラーカイギュウの捕獲禁止令を発
令しました。し
かしながらその頃にはステラーカイギュウを目撃することはほとんどなくなっていました。
そして、
1768年にステラーの仲間であったマーチンはわずかに2、3頭残され
ていたカイギュウを殺したと報告しています。そしてこれを最後に確
かなステラーカイギュウの目撃は途絶えてします。残念ながら北の海にひっそりと棲んでいたおとなしいカイギュウは、
ステラーの発見後わずか27年後絶滅に
追いやられてしまいました。
ステラーカイギュウ達が絶滅してしまった直接的な原因はもちろんハンター達による乱獲ですが、
その他にも一度の出産で一匹しか子供を産
まないという繁殖速度の遅さや必要となる藻類を含めた環境の変化への弱さもありました。当時ステラーカイギュウと同様に、アリューシャン列
島付近に生息していたラッコたちもその毛皮を求めて各地で乱獲されていました。その結果ラッコ達が食べていた
ウニが天敵が居なくなったこと
により大繁殖し、近海の海藻を食べつくしていきました。そしてステラーカイギュウ達はコンブなどの海藻を食べることが出来なくなり、その巨体を維持するこ
とが出来なくなりました。もともと彼らの住んでいる地域は冬になると流氷に覆われ食べ物がほとんど得られなくなります。そしてステラーカイギュウ達は冬に
なると絶食状態になり、脂肪が失われ皮の下の骨が透けて見えたといわれています。ですから
食べ物の枯渇に敏感であった彼らはウニに
よって海藻を奪われた結果より窮地に立たされたものと思われます。
実は化石から
ステラーカイ
ギュウたちは太古の昔アメリカやユーラシア大陸沿岸に広く分布しており、その分布域は南カリフォルニアから日本沿岸にまで達していました。しかしこの地域に
12,000〜14,000年ごろに人間
が定住するようになり、気候が変化すると彼らは住処を追われ海の向こうのアリューシャンの島々にわずかに残るのみとなったと考えられていま
す。ステラーの発見後、アメリカ北西部やアジア極東の沿岸、北極海やグリーンランドなどでもステラーカイギュウを見たという報告はありますがあまり信憑性
の高いものではなく、一般には受け入れられていません。また一般に知られているステラーカイギュウの捕食者は人間ですが、大型のサメやシャチも彼らを食べ
ることが出来、これらから逃げるため彼らは陸地の近くの狭い浅瀬に住んでいたと思われます。
現在はステラーカイギュウの骨や頭蓋骨、皮膚の一部が各地の博物館に残されるのみとなっています。ただ1768年に
最期の個体が殺された後も未確認ながらス
テラーカイギュウの目撃報告は続き、1780年には一頭のステラーカイギュウが捕まえられたといわれています。更に1854年にも目撃報告
がなされており、20世紀に入った
1962年7月にもロシアの捕鯨船がカム
チャッカ半島のアナドゥリ湾でカイギュウに似た6匹の動物が
餌を食べているところを目撃しています。そして
1977年にはカムチャッカの漁師がカイ
ギュウと思われる動物の背中に実際に触ったと
報告しています。しかしながらこれらの事例は信憑性が低く、ステラーカイギュウの生き残りは今のところ確認されていません。
現存するステラーカイギュウの仲間であるジュゴンやマナティ達は各地で厳重な保護が行われており、何とか生息数を保っています。しかし、ステラーカイ
ギュウの絶滅は彼らの存在は非常に危ういものであり、彼らがラッコの乱獲によって間接的に食料を失って生息数を減らしたことから、
保護には直接的な乱獲の禁止だけでなく周
りの生態系も含んだ管理が重要であることを強調しています。